中国残留孤児支援団体「特定非営利活動法人中部日中友好手をつなぐ会」

中国残留孤児問題の歴史的背景

中国残留孤児の渡航前の家族写真

〜中国残留孤児は、なぜ、このような運命に遭遇することになったのでしょうか〜

1931年、日本の関東軍が満州事変を起こし、満州(現在の中国東北部)を占領しました。翌32年から45年7月まで、「満蒙開拓団」と呼ばれる移民政策が展開され、27万にも及ぶ人たちが中国に渡りました。

45年8月、ソ連軍が、突然国境を越えて侵攻して来たため、彼らはソ連軍の蹂躙にさらされることになります。多くの人が避難する途中で力尽き、虐殺されました。「日本という国はもうなくなった」というデマが飛び交い、前途を悲観して集団自決をした人も多数います。守ってくれるはずの関東軍は、いち早く日本に帰還し、男性は招集されて戦地に赴任していたので、置き去りにされた移民のほとんどは老人と女性、子どもでした。  この混乱の中で、幼児を抱えた母親が、生きるために子どもを捨てたり、中国人に子どもを託したりする悲惨な状況が数限りなく起こったのです。

こうして九死に一生を得て、おおらかな中国人に育てられてきたのが「中国残留孤児」です。また、当時13歳以上の女性を「中国残留婦人」と呼んでいます。その中には生き残るために心ならずも中国人と結婚した人もいました。

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戦後の帰国者事業

中国残留孤児家族対面の場

46年から始まった中国からの集団引き揚げは、58年に打ち切りとなり、さらに59年、日本政府は、13,600人余りの未帰還者に対し「戦時死亡宣告」すら出してしまったのです。これにより、残留孤児は日本国籍を失い、その後の肉親捜しは非常に困難になりました。その後72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。

日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられ、永住帰国する人も増えてきました。

しかし、日本国籍を再取得することは可能になりましたが、日本政府が親族による「身元引受人」、または「身元保証人」制度をとり続けたため、いろいろな事情から、身元引き受けを拒否される場合もあり、その結果、中国残留孤児は帰国したくてもできないという事態に陥りました。  そして日本に帰ってきてからも幾重にも苦労を背負うことになり、彼らはあまりにも冷たい仕打ちに嘆き悲しんでいるのが実情です。

ここで重要なのは、彼らは自ら望んで中国に「残留」したのではなく、国策で満州の辺境に送られた棄民であるということです。ソ連軍侵攻時には日本軍に見放され、さらに戦後の帰国事業中断が加わり、二重三重に国家によって切り捨てられた人たちなのです。 彼らがもっと早くに日本に戻ることができていたら、ここまで酷い生活を送らずにすんだはずです。

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日本社会から置き去りにされた中国残留孤児に、ふるさとの安らぎを

訪中団会議の様子

1983年に始まった、中国残留孤児帰国事業による国内定住帰国者は現在、全国で6,319人、世帯構成者では20,217人です。親族の呼寄せなどを加えると、6万人余りが来日しているといわれています。(平成18年6月 厚生労働省調べ)

帰国者は、40年以上たって日本に戻ってきたため、日常生活程度の日本語すらできないという人が73%もいます。さらに、その中国人配偶者となると、ほぼ100%が言葉の壁に突き当たっています。現在、帰国者世帯の61.4%が生活保護世帯です。そのうえ、帰国者の平均年齢は67.2歳にもなり、80歳代が15.4%と高齢化が進んでいます。生活的自立の低下もかなり進んでおり、日本社会で普通に働いて生きていくことは大変困難です。

こうしたなか、帰国者の忍耐にも限度があり、帰国者の実に9割が、全国15カ所で国家賠償訴訟を起こしました。しかし、先日大阪地裁は、帰国者が国家賠償を求めた訴訟で、「戦争損害は国民が等しく受忍すべきだ」として、国家支援義務を認めませんでした。彼らは帰国を果たした後、さらなる苦しみに遭っているのです。

彼らの窮状を考えると、老後を見すえた生活の保障が不可欠です。特別扱いは必要ではありませんが、国のそして皆様のサポートが必要です。日本社会は、形式的な法律論や責任論を超えて、この幾重にも苦労を背負った戦争被害者にもっと温かい手を差し伸べなければいけないのではないでしょうか。

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